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研究室訪問
文学部 人文学科    
坂井 健 助教授

文学は、「人はきっと理解し合える」
という夢を見せてくれる。


文芸評論および文学論争史を専門とされている坂井先生。研究室に足を踏み入れると、書棚にひしめきあうムツカシソーな文学書。かと思うと、演歌の本や、ぼろぼろの時刻表、得体の知れぬカビ臭い本などなど…明治・大正のレトロな活字が踊って、タイムスリップをしてしまいそうな錯覚に襲われます。骨董品手回し蓄音機で浪曲のSP盤を鳴らしたり、バンドネオンで懐メロを弾いてみたり…これも先生一流の文学研究法なのだそうです。
坂井先生の写真

国文学研究の道を歩まれたきっかけをお聞かせください。

 学部に入ってから、国文を選んだとき、なぜ国文学を勉強するのか? と聞かれ、返答につまりました。たとえば、医学部なら医者になるため、法学部なら法律家になりたいとか、確かな理由がある。その時から「ああ、なぜ僕は国文学をやるのだろう?」と悩みだしたわけです。とりあえず、先輩や先生方に尋ねて回りましたが、「理由なんかないよ。やりたいからやるんだ。」とか「甘えるな、 自分で考えろ」などと、ちっとも答えてくれません。けれども、昔の文人はみんな大真面目に文学をやってたんですよね。家庭も地位も投げ捨てて自分の理想を追い求めたり、赤貧に苦しみながらも文学にしがみつき、果ては野垂れ死にしてしまうこともあった。それでも捨てられなかったんですね。ということは、ブンガクをやることには、かならずフカーイわけがあるに違いない。そうだ、昔の連中に聞いたらきっと教えてくれるだろう! これは名案! しめしめしめこのしめ団子とばかり、明治・大正の文学者たちの文学理論や文学論争、文芸評論、日記、書簡なんかを片っ端から読みはじめたわけです。
 古めかしい日本語で書かれている当時の文献を一語一語噛みしめるようにして読み込んでゆくと、文字と文字との間から、連中は、驚くほど生き生きと語りかけてきます。その声に耳を傾けていると、あの、ちょっと何ですが、こんな楽しい、わくわくすることはありません。
 初めは、二葉亭四迷に惹かれました。クタバッテシメエとの語呂あわせと双葉のうちから、あっちもこっちも迷いだらけという非常に自虐的なペンネームを持つこの作家は、擬古文や漢文書き下し体など難解な文章しかなかった当時にあって、初めて言文一致体を採用し、わが国の文章に革命を起こした人物です。ロシア文学の翻訳から学んだ口語的文体を取り入れた斬新な文体は、読むとそのままイメージが立ち上がってくるような豊かな文学表現を可能にしました。私たちの祖先は、この文体のおかげではじめて自分たちの新しい思想を身近な言葉で表現し、相互に理解しあえるようになったのです。
 二葉亭には、『小説総論』という優れた文学の基準について述べた評論や、文学についての彼の思想を記した日記が残されています。このちょっとヘンテコで実に魅力的な男は、何を文学に求めていたのか? みなさんも、知りたいと思うでしょ!

研究テーマ「文学理念の歴史的展開」について教えていただけますか。

 どういう学問かというと、文芸評論や文学論争史の考察を通して、それぞれの時代にどのような文学が求められていたのかという文学理念の歴史的変化・発展を研究していく仕事です。誰かが作品を書くと、きっと誰かがいいとか悪いとか論評します。すると、別の人が、俺もそう思うとか、いや俺は違うとかいって、論争が起こるわけですが、そこに論評する人の文学はかくあらねばならぬという価値観が現れるのです。つまり、彼らの文学理念が見えてくる。さて、作家はこうした批評家の論争を敏感に受け止めます。そして、自分が正しいと思うような文学理念にしたがって創作をする。するとまた、そこに評論が加えられ、論争が起こって、また新たな文学理念が現れます。
 相変わらず、私の研究の原点である「文学をやる理由探し」を続けているわけです。歌は世につれ世は歌につれといいますが、文学もやっぱり世につれ、世は文学につれ、ということができます。このように文学に求められるものは時代によって移り変わってゆくわけですけれど、それはデタラメに移り変ってゆくわけではなく、文学独自の理念の展開に従いながら移り変わってゆくものなのです。もちろん、時代という外的状況が文学に影響を与えないはずはありません。けれども、それだけではないと思います。
 話は変わりますが、現代社会では、外側だけ求めて中味は問わないという風潮があるようです。というより、私たちは外側だけしか理解し合えないという考え方がはびこっている。
 文学作品でいうと、私たちは作品を読んで自分なりに理解することができるけれども、その作品にこめられた作家の意図、引いては思想・人生観などは、理解することができない、という考え方がハバをきかせています。
 これでは精魂こめて作品を読み込んでいく意味がなくなってしまいます。作品に込められた作家の魂がいかに優れたものであっても、理解できないのであれば何にもなりません。それならそんな作品よりも、自分勝手に面白おかしく読めるものの方がよっぽどいいということになってしまいます。
 文学に託された人生の真実などあり得ず、文学など日常的消耗品にすぎないということになってしまいます。しかし、これではあまりにも寂しい。“文学には作者の精神が現れていて、読書によってそれを理解することができる。”私はそう思いたい。
 夏目漱石が何十年も前に身を削るような思いで書いた作品を読んでも、書いた漱石の言語体験と現在の私たちの言語体験とはまったく違う。だから、自分なりの感覚で読み、理解するしかない。漱石の意図など分かりはしない。これでは読書の意味がありません。
 作品だけで理解できないことでも、 その後ろ側にあるもの、日記や手紙を読み込み、彼の人生観を理解し、漱石の体臭が漂ってきそうなところまで踏み込んで初めて、魂に触れられる。そう思います。それがたとえ幻想だとしても、文学は、“人間は理解し合えるんだ”という夢を見せてくれます。現代人は理解し合えっこないと諦めがちですが、結果的には、そうだったとしても、きっとできるという夢を持って研究を続けたいのです。
 百年前の人とでも、二百年前の人とでも語り合える、そうありたいなという心持ちで、神田、早稲田、寺町…全国津々浦々の古本屋を訪ねては、カビのはえたような古書や骨董を集めているわけです。
 通信教育生のみなさんも、いろんな所へ足を運び、肌で学問を感じましょう。自学自習はタコつぼにはまりやすいもの。スクーリングや学習会を活用して、体感する勉強を続けていただきたいです。


PROFILE
さかい たけし
国文学の中でも、文学論争・文芸評論と文学作品の対照による文学理念の歴史的展開を検証する研究が専門。昨年1年間、ベルリン自由大学客員教授として滞独。余暇には、バンドネオンの工房を見学、演奏の手ほどきも受ける。市場に通ってベルリンでお刺身生活を送る。日本ではダンスバンドに所属、SPレコードの収集に励むなど…多彩な文化の遊蕩者でもある。

『佛大通信』Vol.481(平成17年10月号)より転載

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